措置延長・継続

1月12日

一昨日から学校が再開し、少し気持ちに余裕ができた。

年末に厚労省から「児童養護施設等及び里親等の措置延長等について」という局長通知が出た。朗報だった。
要は、社会的養護にある子どもについては、原則18歳(高校卒業)までの措置であるが、特別な事情(例えば、就職がまだ決まっていない、就学が遅れた等)があれば20歳までの措置延長が可能であるが、この措置延長の規程を積極的に活用しなさいというもの。

これによって、大学や専門学校に進学した子、高卒就職した子についても措置延長が可能になった。(ただし、通学や通勤に便利な都市部でないと難しい。あくまでも措置延長だから、東京の大学へ進学した場合に東京の施設へ措置変更するというわけにはいかない。)

同時に、中学校卒業や高校中退等で就職する児童についても、卒業や就職を理由として安易に措置解除することなく、継続的な養育を行う必要性の有無により判断することとされた。児福法を純粋に読めば、こうした子どもの措置を継続できないわけはないのだが、児童養護施設では高校等へ進学しない(あるいは中退した)子は原則、施設を出なければならないと考えられてきた。

この問題に対して国は、昭和63年に「養護施設入所児童のうち中学校卒業後就職する児童に対する措置の継続について」という通知を出した。これは、中卒で就職しても概ね6か月間は措置を継続できるというもので、要は、15歳で施設を出て就労したとしてもうまくいくわけないのだから、しばらくは措置を継続して就労支援をしなさいというものだ。しかし、この通知が今では、高校等へ進学しないで就職する子は原則として措置を継続できないことを裏付ける論拠として利用されてしまっているのだ。今回、この通知は廃止された。

このように措置延長や継続についての通知が出されたとしても、すぐには状況は改善しないだろうし、もし通知のとおり措置延長や継続が実施されたとしたら、それでなくとも混迷している施設はさらに混迷を深めていくことだろう。なぜなら、高校等へ進学しない(というよりできなかったという方が正しいかも)子や中退してしまう子は、発達的な課題をもっていたりして社会適応が困難な子が多く、単に施設での養育を継続したとしても自立への有効な道筋を見出しにくいからだ。しかし、例えそうだとしても、社会的養護の責任として(うまくやっていくことができないとわかっていても)卒業や就職だけを理由に社会に放り出すことはなってはならないだろうし、真剣に養育に携わってきたという自負があるならばそれはできないであろう。

現在、社会的養護にある子どもの数は、義務教育終了後に急激に減少している実態がある。社会的養護が高校生年代の子どもの問題に十分に機能していないことの表れともいえる。これは決して社会的養護の分野に限らない。ある弁護士さんが「高校は安易に子どもを切り捨てる(表向きは進路変更に伴う自主退学だが)。高校を辞めた子がその後どうなっていくのか考えているのだろうか。」と嘆いていた。社会(大人たち)は、自分たちに都合のいい子どもとは向き合おうとするが、厄介な子どもと向き合うことを避けがちだ。

高校生年代は、児童(児福法では18歳未満をいう)の最終段階であり、社会的自立に向かう重要な時期だ。児童虐待に対して、早期発見に努め、被虐待児に対して治療的養育に努めても、最終段階での支援が不十分であれば、虐待の連鎖を断つことはできないだろう。社会的自立が困難な子どもの割合が増えている。それでなくとも少ない子ども。児童の最終段階での支援について、社会全体がもっと関心を寄せなければならない。

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この場を借りて

12月31日

先日、中学校の先生から匿名で3万円の寄付があった。封書の消印は「大田原」となっていた。領収書も礼状も送ることができないので、この場を借りてお礼したい。

年末になって、寄付が次々と届けられてきた。先日のブログで、タイガーマスク現象があった昨年と比して少なくなったと書いたが、人の温かさは変わっていないと思った。大震災は悲惨であったが、そのことで人と人が助け合う大切さ、「絆」の大切さが改めて確認できた1年だったではないだろうか。

今年もたくさんの子が施設で新年を迎える。にぎやかななかにどこか寂しさの漂う正月になりそうだ。

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職員募集

12月21日

養徳園では来春4月1日採用の職員を募集します。

児童指導員・保育士を正職員で3名募集します。

勤務地は養徳園(さくら市喜連川1025)及び氏家養護園(さくら市氏家1060)です。

希望される方はメールください。追って採用試験等について連絡します。

園長 福田雅章

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タイガーマスク現象、今年は?

12月21日

昨年末から1月にかけてのタイガーマスク現象は一過性だったのか、昨年に比べる随分寄付が減った。今年は東日本大震災もあり、タイガーマスクの影は薄くなってしまったようだ。でも昨年の現象がきっかけで今年も継続して寄付を下さる方もいて、こうした継続した寄付は施設を理解してのものと思うととてもうれしい。

オアシスの家の火事に際して見舞金を下さった方から、先日3万円の寄付が届いた。今回も匿名だったが、私の栃木市時代を知っている方で、この場を借りて感謝したい。

タイガーマスク現象は、児童養護施設の正しい理解の促進には少しは役立ったと思うが、まだまだの感は否めない。

最近の講演で必ず話すのが、児童福祉法第2条のことだ。

「第2条 国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う。」

この条文が社会的養護の根拠となるもので、子どもの養護に対する行政の責任を謳ったものだ。つまり児童養護施設は行政の委託を受けて子どもを預かっており、公的な色彩が濃い。養徳園の子は栃木県知事からの措置委託であり、養育に要する費用は国及び県から支弁されている。ただ、それだけでは不十分なので寄付に頼るところも大きいというわけだ。

今でも「養徳園の子どもの生活費はどうしてるのですか。共同募金などからの寄付で賄ってるのですか。」と聞かれることがある。これが、教員であったり、役人であったりすると、むっとくる。もっと正しく理解してほしい。

今の児童養護施設で衣食住に困るということはない。ただそうした面での寄付があれば、その分を不足しがちな教育や娯楽に回すことができるのでありがたい。

でも本当に不足しているのは、18歳以降(児童福祉法からはずれる)の支援なのだ。高卒以降の進学もそうだし、就職してもぎりぎりの生活をしているのが実態だ。そのことをもっとわかってほしい。

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インテーク3

11月30日

あっというまに11月も最終日。 児童養護施設の運営指針の作成に携わったり、全養の大会があったり、虐待防止の県民のつどいがあったりで、今月はまだ一度しか更新しておらず今日は何としても更新しなければ。

さて、インテークの続き。昨夜、幼児の緊急入所があった。子どもについての情報がほとんどない中での入所である。こうしたケースがもっともインテークワークがおざなりになってしまうので注意しなければならない。高齢児のケースでは、アクティングアウトなど施設不適応の虞もあるので、緊急で預かったとしてもその後のインテークワークは慎重に行っていくのであるが、幼児の場合、アクティングアウトの虞がないので、「これからのことはおいおい検討していきましょう」といったようになりがちだ。

乳児院からの措置変更で家庭復帰の見込みのない(家族との交流がない)場合、なおかつ里親委託に失敗しているとなるとやっかいだ。

インテークワークは当然なされていないから、どうして施設にいるのかさえわかっていないし、親に見捨てられたという感覚だけがある。里親とのマッチングに失敗すれば、自分は愛されないというイメージが蓄積される。もっと不幸なことは、児童相談所がこうした子に関心を持っていないということだ(ケースワーカーにもよるが)。保護者からの要求もなく、とりあえず施設生活に適応していれば・・・。関心を持って動くとすれば、その子が問題を起こして保護が必要となったときで、もうそのときでは実は手遅れなのだ。

自分がどうして施設にいるのか、自分の親はどうなっているのか、できるだけ早い時期に知らせ生い立ちの整理をすることが重要である。これは施設の役目でもあるが、児童相談所もこのことの重要性を認識すべきだろう。

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インテーク2

11月3日

先週は函館で自立援助ホーム協議会の全国大会。前泊の夜、市内の有名すし店で会食。値段にびっくり!回転ずしの15倍、普通のすし屋の5倍といったところか。これをぼったくりというのでは・・・

大会のほうは、参加者が初めて200名に達する大きな大会にだった。お金がないところで魂だけでやっていたころから比べると隔世の感がある。会長の星さんもこの会をどのように導いていったらよいのか頭の痛いところだろう。

さて、インテークの問題。子どもは、施設入所に際して、どのくらい自分の状況を理解しているのだろうか。10歳以上ならある程度の理解はできているであろう。しかし、それでも施設入所を納得していなければ、効果はあまりない。

たとえば、思春期になって親子関係が悪化して(もちろん虐待含みだが)、親が「もうこんな子面倒みられない!」と施設へ追いやられた子で、こんなことを言った子がいた。「なんで俺が施設に入らなくちゃいけないんだ。悪いのは親なんだから親が施設に行けばいいんだ」と。至極もっともな意見だ。施設入所を最初からマイナスにとらえているのだから、新しい生活に適応するわけはない。結果、再び家庭に戻って状況がさらに悪化するか、別の施設へ移ってさらに親への恨みひいては大人への恨みが増幅するかのいずれかであろう。

こうした子の場合、施設入所をプラスととらえられるようなインテークワークが不可欠で、それができないなら親子関係そのものへの援助が必要となる。たとえ(緊急避難的に)マイナスからのスタートになったとして、入所後、親子関係の修復のための援助がなされなければ、施設入所の意味はなくなってしなう。

つづく

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インテーク1

10月24日

昨日は星の家まつり。震災の影響でいつもの体育館が使用できず、場所を変えて規模を小さくして実施。それでも約150名のボランティアが手伝ってくれて盛況だった。来年は15回目で記念事業を合わせて開催することになる。またよろしくお願いします。

さて、仕事がタイトになってくるとブログの更新もおろそかになる。卒園者もこのブログを見ているようなので、私が元気なことを伝えるためにも、しっかり更新しなければ。

私の最近の関心は、もっぱら、社会的養護の入口と出口の問題だ。出口の問題は目に見えることなので、かかわった大人の気持ちや制度の問題として捉えることができ、何とか対処しようと思うのだが、入口の問題は、見えないし、過ぎ去った過去のことなのでどうすることもできない。だからこそ、入口の問題はもっともっと児相も施設も重要なこととして捉えなければならない。

順調に育ってきた子が思春期になって壁にぶつかることがある。誰しも「アイデンティティクライシス」の時期はあるのだが、重篤な場合をみると、入口の問題?と思ってしまうことがしばしばある。

長く社会的養護にあった子で、思春期以降つまづいてしまう子と出くわすと、これまでは施設での養育の問題を考えていたのだが、最近は、「この子自身が、自分の人生を受け入れていないのじゃないか」と考えるようになった。

つづく

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龍王峡(だいじ家ハイキング)

10月2日

昨日は、だいじ家のみんなと鬼怒川の龍王峡へ行った。

Nec_0062_2アフターケア事業が始まって5か月。毎水曜日の食事会のほか、月一回の行事をもっている。そのひとつが今回の龍王峡ハイキングだ。大人を含めて11名が参加。天候に恵まれ、景観を楽しむことができたし、帰りの岩風呂もよかった。

食事会にしろ、月一回の行事にしろ、みんなでわいわい楽しんでいるだけなのだが(スタッフは準備でたいへんだが)、実はこうした機会を当事者に提供することがどんなに重要なことか、気づいていない人も多いようだ。

施設から離れて自活することの難しさは、単に生活技術や知識の問題ではない。同じ18歳を比べて施設で育った子が、この点で一般家庭の子に劣っているとは思えない。少なくとも最近の実習生をみているとそう思える。

それよりも、大人数の生活から一人で暮らすという点、さらに実家の機能の有する居場所(いつでも必要な時に帰れる場)をもたないという点のほうが問題なのだ。共通するのは「孤独感」。仕事に明け暮れているうちはいいが、休日がつらいという当事者の声を何度聞いたことか。進学した者にしたってそうだ。アルバイトに明け暮れなくてはならないから、学生生活を楽しむ余裕なんかない。「どうして自分だけ・・・」。

こうした当事者たちに居場所を提供するのがだいじ家の目的の一つだ。

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金がつき、住む場所を追われて、だいじ家にやってくる者がいるが、そういう状況になってしまった者に対してできることは、せいぜいハローワークに一緒行ってやることぐらいだ。そうなる前からつながっている大人がいれば、ぎりぎりの状況にならなかったかもしれない。だいじ家は、ぎりぎりの状況になった者を助けるところではない。そうならないために当事者たちとつながっているところなのだ。

右の写真は、虹見の滝に見えた虹を撮影したものです。

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尾瀬に行ってきました

9月29日

昨日(28日)、施設の睦会(親睦会)の行事で尾瀬にいった。

今年は、ハイキング、ドライブ、一泊旅行、ゴルフの4つからの選択。最近、山登りにはまっている私は迷わずハイキングを選択した。ゴルフはしないし、一泊できるだけの時間がとれそうもないし。

紅葉にはちょっと早かったけど、雲一つない晴天で、気持ちよく歩いた。歳をとってくると、「自然」に素直に感動するようになってくる。今回は尾瀬沼だったか、次回は尾瀬ヶ原の方も歩きたいと思ったし、そのうち燧ヶ岳を登ってみたいと思った。

尾瀬で珍しい人に出会った。郵便屋さんだ。大きなリックを背負って、回収配達をしている。乗り物がない自然の中、いったい何キロ歩くのだろう。

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ここ数日タイトなスケジュールで活動していたので、久しぶりに心の洗濯になった。

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福祉は学問か?3(社会的養護)

9月22日

社会的養護の結果の検証がなされてこなかったのはどうしてか?

そもそも子どもの成長発達について、何がどのように影響しているのかを検証することは、変数が多すぎるし、それらが複雑に相乗しているのでむずかしい。それに養育の結果を検証するのに、いったい何を物差しにするのか。生活の豊かさ?(物的?精神的?)、人生への満足度?(成人したとき?終末期?)

人の育ちについては、結果論として語られることが多い。成功した人物については○○だったからよかったと、罪を犯した人物については××だったのが悪かったと。

養育の現場にいると、遺伝的要因だったり虐待など親の養育態度の影響を否定できない場面に多々出くわす。遺伝や親の養育態度に負の要素が大きいと、施設での養育は大きなマイナスの状態からスタートすることになる。施設が専門的立場から、かつ献身的に養育したとしても、世間一般にいわれる「普通」にまで達することはないであろう。だからといって「施設の養育はだめだ」とはいえないであろう。その場合であっても、その子にとって何がよかったか、何が悪かったかなど、様々な角度から検証していく必要がある。

もちろん逆の場合もある。マイナスの要素が小さいのに思うように育たない場合、いったい何がだめだったのか検証しなければならない。そのとき大切なことは、養育の形態や職員数などの物理的要因に安易にその原因を求めるのではなくて(このことの影響は大きいが)、子どもの心に何が起こっていたのかを検証すべきであろう。

いずれにしても、結果だけを見て、よい、悪いの判断をるのではなくて、養育のプロセスを大事にしたい。ひとりの人間の成長発達を継時的に追って、そのときそのときの社会的養護のサービスがその子にどんな影響を及ぼしたのかを検証していかなければならない。そうすることで数多くの知見の集積が可能となるのだ。

数年前、全社協が「子どもの育みの本質と実践」という調査研究を行った。この研究で、子どもを継時的に追って、そのときのケアの状況を調査したものがある。事例は15であったが、こうした調査をもっと数多く行っていくことこそ重要なのであろう。

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