指導員部会研修

12月19日

栃木県では、県内の施設全体で研修に取り組もういうことで、職種ごとの部会を設けた。こうすることで、施設間の横のつながりもでき情報交換の機会も増えることが期待できる。私は研修委員長という立場で全体をとりまとめる役目だが、その労力の多くはケアワーカーの研修をどのように組み立てていくかに注がれている。

早速、先日、弁護士を交えての研修会が開かれた。これは、「被措置児童等虐待の防止」が制度化され、日々子どもに関わるケアワーカーは、何がよくて何が権利侵害になるのかがよくわからないということで、そのあたりを整理することが必要と思ったからだ。

結局のところ、私がよくいっているように、子どもへの対応の場面場面を切って「これは施設内虐待だ」とはいえないということだ。「ひとつの行為もその脈絡の中で判断されるので、やむにやまれないこともあるだろう」ということなのだろうと理解した。要は、日々、子どもの言い分をよく聞き、最善の利益を考慮した援助に努めていくことが重要だということだ。

ひとつすごく勉強になったことがあった。虐待をしてしまう親にも「個人の尊厳」があるということだ。我々のように、親から分離された子どもとばかり関わっていると、「(虐待する)とんでもない親」、「子どもは私たちがきちんと養育するから(親は)じゃましないで」と思いがちだ。でも、そう思って親に対応していたんでは、親は変わらないんだろうなあ。もっと親の言い分を聞いてやることの必要性を強く感じたし、施設で欠けている部分だと思った。

弁護士先生は、日本国憲法の精神を強調しておられた。施設で権利擁護というと、どうしても「児童福祉施設最低基準」の条文を考えてしまうが、国の基本法である日本国憲法が「人権(権利)」についてどのように規定しているのかを理解しておかないと、権利擁護の正しい理解にはならないということを知らされた。真に人権感覚を磨いていくためには、その辺から始めなければならないでしょう。

いずれにせよ、かつて「法律が通用しない」とか「パスポートがないと入れない」と揶揄された栃木県、随分変わってきています。

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底辺校の役割

12月12日

多くが低学力に甘んじている児童養護施設の子どもにとって高校生活を持続していくこと自体、容易なことではない。「ならば、わざわざ高校に行かなくてもいいんじゃないの」という人もいる。中卒児(高校非進学児)の受け皿があった一昔前だったらいざしらず、ないに等しい今日の状況を考えたら、施設のすべての子ども達に高校進学を保証していくことは当然のことといえよう。「どうせやめちゃうんだから高校に行っても仕方がない」と思うようなら、自立の支援という施設の目的を放棄しているに等しい。少なくとも続くか続かないかは誰にもわからないのだから。

さて、高校生活をどうにか乗り切り、何とか卒業していくためには、もちろん施設がどのように支えるか重要であるが、子ども自身のモチベーションの持続も必要である。と同時に、高校側がその子をどのように受け止め支援していくのかも大切なことである。

児童養護の世界に奉職してもうすぐ17年になる。たくさんの子どもを高校にやったが、ただの一度も、高校側と施設が対等な立場で子どもへの支援について話し合ったことはなかった。テストの点が悪かったり、欠席が多かったり、時には問題行動で、保護者が呼び出され、進級をたてに脅し半分の指導を受けることはたくさんあったが。

高校が義務教育化されており、そして中卒児の受け皿がない現状を考えると、いわゆる底辺校は福祉的視点から教育を考えていかなければならないと思うのだ。「勉強が嫌いだ」とか「友人関係がうまくいかない」など、安易に高校をやめる選択をしてしまいがちな子どもを、いかに高校につなぎ止めていくかということを考えてほしいのだ。「高校は義務教育じゃないのだから」といわれてしまえば、そのとおりであるが・・・。子どもは挫折を通して大人になっていく。失敗することが保障され、敗者復活の場が保障される高校教育があってもいいだろう。

高校中退児の受け皿が本当に小さくなっている。高校を辞めて浮遊する子どもが増えることは、社会にとってマイナスにはなってもプラスになることはない。と考えると、特に公立の底辺校は、高校自体が受け皿の役割を果たしていくしかないのである。

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高校生活

12月7日

社会的養護の最後の3年間、高校生活は、先々のことを考えると、ことのほか重要だ。

この時期は、社会に出る準備期間として、施設の生活よりも、学校やその友人、あるいはバイトなど、施設外での生活のほうが重要となる。(本来なら大学受験や部活動に勤しんでほしいのだが、なかなかそういう子は少ない。)

保護する立場の施設と、施設外の生活のほうが重要となる高校生、微妙な関係になってしまいがちだ。今日、高校生女児を迎えに行った。最近、バスに乗り遅れたといっては、頻繁に迎えの要請がくる。

この高校、喜連川からバス1本でいけるのだが、バスの本数が少ないばかりか、最終がやたらに早い。高校から喜連川に向かうバスの最終は17時15分だ。これでは部活はおろか、友人とだべることもできない。これでバイトもしないで、毎日18時までには施設に帰ってくるとしたら・・・。(この高校は進学校ではありません。) 施設にとっては都合がいいかもしれないが、その子にとって高校生活って楽しいのかな。

バスに乗り遅れた子を迎えに行く。迎えに行く方からしたら時間の無駄に他ならない。夕食時の忙しい時間帯にそのために職員がとられるのであるから。でも、友人とだべることで、心の安定を図っていたり、高校生活に潤いをもたせたりすると考えれば、しかたがないのかなとも思える。今日はそういうふうに考えて怒らなかったけれど、続いたら怒っちゃうだろうな。

それと、いろいろ職員を振り回して、二ヶ月間、学校に行っていなかった高校生女児が、一瞬だが学校に足も踏み入れた。明日は朝からちゃんと行くと言っているので信じたい。我々が信念をもって支えれば、子どもたちは正しい選択をするものだと実感できた。でも正念場はこれからです。

インフルエンザ流行、第二波到来中。現在、職員4人が罹患中。私も今夜は久しぶりにユニットに入って過ごしました。

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職員募集及び研修会のお知らせ

12月2日

社会福祉法人養徳園では、来春地域小規模児童養護施設を増設します。それにともない正職員を募集することにします。募集要項はホームページにアップされています。なお、採用試験は12月14日に行います。受験を希望される方は、至急連絡下さい。

ホームページでは臨時職員となっていますが誤りです。正職員です。(担当職員があとで訂正します。)

また、法人内研修の一部を公開します。これもホームページにアップされますが、概要は次のとおりです。

テーマ 「児童養護施設職員のための養護内容」(3回)

日時 12月19日、1月30日、2月20日 いずれも土曜日の16:00~17:30

場所 児童養護施設養徳園生活指導室

講師 私

参加を希望される方はメールでお願いします。

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子育ての社会化2

11月29日

「子育ての社会化」と「社会的養護」、同じ「社会」という言葉が使われているが、意味は少し違うようだ。前者は社会全体で見守り育てていくということだが、後者は「行政の責任で」ということだ。確かに行政の責任でということでは正に「社会」だが、特定の人に委ねられていること、社会的養護の下にある子どものことがあまり知られていないということでは、とても「社会」とはいえないのである。

最近発行された全日教連教育新聞にネバーランドの宇賀神施設長が「被虐待児童へ適切な支援を」と題して意見文を寄せていた。愛着障害や被虐待児症候群への対応について学校側との共通認識や理解が得難い状況にあることを指摘し、被虐待児を特別支援教育の対象になるよう法整備されることを訴えていた。貴重な提言である。

そのまえに、現行法でできることをやってもらいたいという思いを持っているのは、私だけではないであろう。「児童虐待の防止等に関する法律」の第13条の2に次のような一文がある。「国及び地方公共団体は、児童虐待を受けた児童がその年齢及び能力に応じ充分な教育が受けられるようにするため、教育の内容及び方法の改善及び充実を図る等必要な施策を講じなければならない。」 このことが明文化されてすでに5年が経過するが、この条文を具現化した取り組みを聞いたことがない。特定の地域や学校に、被虐待児が集中している現状では、教育委員会や学校が被虐待児の問題を社会全体の問題として認識していくことは難しいのだろうか。そして縦割り行政の弊害か。

「行政の責任で」といいながら、教育行政も行政の一部であるはずだ。社会的養護の「社会」ってほんとうに狭いのです。

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更生保護

11月25日

更生保護制度施行60周年記念栃木県更生保護大会に保護司の一人として参加。
午前中は記念講演、午後が大会のメインである、表彰・感謝状の授与、叙勲・褒賞の披露だった。

犯罪リスクのある子どもたちと向き合うこともあるせいか、更生保護のありかたを考えてしまう。保護司も保護観察所の人もみんな安全なところにいるんだよな。安全なところから「まじめに仕事をしなさい」といってもあんまり届かないんだよな。保護司はボランティアだから、無理する必要はないし、実際、保護司さんへの講演では、深入りしすぎないようにと助言する。でも、誰かがつながり続けていないと・・・・。結局システムの問題で、もっと福祉的観点からの介入が必要だと思うのだが。縦割り行政の弊害がこんなことろにもあるのだ。

最近、こんな話を聞いた。西日本の少年院で仮退院予定の少年の引き受け先として関東地区の自立援助ホームに依頼があった。実家では昔の仲間との関係が切れないおそれがあり、実家には返せないらしい。自立援助ホーム側ではOKしたのだが、なかなか話が進まないので、関係者に事情を聞いたところ、どうも保護観察所が引き受けたがらないということだ。そしてその理由として上げられているのが、保護司に迷惑をかけられないということらしい。こんなことって許されるの? 確かに、保護司はボランティアだから、厄介なケースは手に余ることもある。でもやってもいないうちから「保護司に迷惑かけられない」では何のための更生保護か。事なかれ主義丸出しの保護観察官。専門職じゃないんだよな。

結局、児童養護にしろ更生保護にしろ、出口の問題が大きいのです。ここをしっかりしなければ何も変わらないんです。

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子育ての社会化1

11月23日

巷は勤労感謝の日を含めて3連休でも・・・

21日は、支える会の県南地区研修会を栃木市で行った。研修を行おうとすると、どうしても宇都宮に偏ってしまう。そこで、県内全域に自立援助ホームの活動を理解してもらうために、県北及び県南地区でも研修会を実施することにした。数年前にも同じ取り組みをしたが、参加者はずいぶん増えた。数年前、栃木市で行ったときは5、6名しか集まらなかったが、今回は20名近く集まった。小山・栃木地区は、人口は多いのだが、児童養護施設がなく、我々にとっては実働部隊がないのが悩みだが、こうした研修会を開くことで支援者を増やしていきたいと思う。

シンポジウムでは、佐野市で社会福祉士事務所を開いている永島徹さんが、地域での居場所をづくりの必要性などを語っていた。それも含めて、思ったこと。

少子化の深刻化で、その対策として子育ての社会化が叫ばれるようになって久しい。民主党政権が打ち出した子ども手当はその具体的な手だて一つだ。でも、子育ての社会化はどうも年齢の低い子どもに偏っているように思えてならない。子ども手当だって中学生までだ。子育ての最終目標が子どもの社会的自立ということを考えると、家庭と実社会をつなぐ社会資源が少なくなってきているように思えるのだ。昔の徒弟制度のように生活の面倒を見てもらいながら手に職をつけていくようなシステムは皆無になってしまったし、社員寮を持っている企業は一流企業ぐらいだし、学生寮も少なくなった。しょうもない大学はたくさんあるが、働きながら学べる夜間(二部)のある大学は少なくなった。結局、子育ての最終段階では、昔以上に個々の家庭に委ねられてしまい、経済力を含めた親力に左右されてしまうのだ。社会的養護にあった子の自立の困難さはこんなところにもあるのだ。

22日、23日と、「第12回全国シェルターシンポジウム2009inとちぎ」に参加。DV被害者支援を行う民間団体の全国大会だ。福島瑞穂内閣府特命担当大臣も出席、全国から1000名以上の関係者が集まり盛況だった。感想はあとで。

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だいじ家(け)の役割

11月18日

前回の「アドボカシー」に対して養護園OBさんから寄せられたコメントを読んで、今、開設の準備を進めている社会的養護の当事者のためのサロン「だいじ家」の必要性を強く感じた。

施設養護のあり方を考えるとき、当事者の声はなぜか蚊帳の外におかれがちだ。実際、栃木でも過去に2度「児童養護施設のあり方」に関する検討がなされたが、当事者の声を反映させるということはなかった。これは私にも大いに責任があり率直に反省したい。

よくよく考えてみれば、当事者の声に耳を傾けることが、施設養護を考える第一歩でなければならないはずだ。

施設に悪いイメージを持っている当事者の声は、何が彼らの心を傷つけたのかを知ることができ、「不適切な対応」の本質を理解する契機となろう。また、施設に救われたという当事者の声は、ケアワーカーにとって何よりのエンパワーメントになるし、施設に対する偏見の解消にもなろう。

「だいじ家」は、孤立しがちな当事者の居場所として機能していくことはもちろんとして、当事者の声を施設養護の現場そして社会へ発信していく中継地点としての役割も果たしていかなければならない。

非常に意味のある活動なのだが、栃木県ではなかなか予算がつかないのです。それでも必要なことはやる、それが福祉に携わる者の務めです。

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アドボカシー

11月15日

最近、野中広務と辛淑玉の「差別と日本人」を読んだ。野中広務は被差別部落の出身者、辛淑玉は在日朝鮮人として、受けてきた差別の実態と、差別される側の心情が率直に語られていて勉強になった。

施設あるいはそこで生活する子どもに対する差別はないと思われるが、子どもたちが軽く扱われることは少なくない。その要因として考えられるのがアドボカシーの問題だ。

先日、あるOBが突然やってきた。私と同じ時代に養徳園で生活した人だったので、昔話に花を咲かせた。彼は、小学生のときに養徳園に入所するのだが、宇都宮の小学校から喜連川小学校に転校したら、通知票の成績が、平均して3ぐらいだったのが1や2ばっかりなったというのだ。このことについては、先代の園長もよく言っていたことだが、当時は相対評価で、誰かが悪い評価を引き受けなければならず、その受け皿に施設の子どもがされたということだ。悪い成績をつけても誰も文句を言わないかららしい。今でこそ絶対評価になりそのようなことはなくなったが。

私が園長となってから経験したこと。10年ぐらい前だったか、中学校で、養徳園は家庭訪問を一人一人やるのが大変だからまとめてやると言い出した。しかも私に相談もなく。私はすぐに抗議して、従来通りに戻ったが、学校が施設の子どもを軽視している証拠として印象的な出来事だった。

昨年、中3の子が結構大変で、3学年のある教員がふともらした一言、「喜連川じゃない子でたいへんなんだよなあ」。教育公務員として不適切な発言であるが、こうした言葉は親の前では絶対言わないはずなのに、私たちの前では言っちゃうんだよなあ。

最近、小学校であった出来事。ある教員が「養徳園の子は体育館に集まってください」と校内放送してしまったという。十把一絡げ的な扱い、施設で生活していること自体にコンプレックスを感じる高学年の子にどれだけこたえるか、わからないのだろうなあ。この問題についてはいずれ糺さなければならない。

「児童(生徒)が主役」とか「一人一人を大切に」とか、教育方針が示されるが、それが本物かどうかは、弱い立場にある者が一番わかるのだ。

施設の大切な機能にアドボカシーがある。子どもたちの権利を代弁すること、我々はもっともっとこのことを意識しなければならない。

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施設内虐待

11月13日

国立の児童自立支援施設「きぬ川学院」で職員の入所少女への暴力が発覚した。厚労省が発表し全国報道となった。

「きぬ川学院」は養徳園と同じさくら市の施設だ。国立の児童自立支援施設は、男子の「武蔵野学院」(さいたま市)と女子の「きぬ川学院」の二か所で、ここの施設の職員は国家公務員で、場合によっては児童福祉施策を作る側に回る。実際、厚労省の児童福祉専門官は二代続けて「きぬ川学院」の院長に就任している。「被措置児童等虐待防止」についても作る側だったはずだ。また、民間の施設から見れば、もっとも訓練された職員集団と目されていた。

この事実を隠さず、厚労省自ら公表したこと自体は勇気あることと評価したいが、まさか「きぬ川」で、というのが率直な感想である。施設内虐待の根の深さを実感する出来事であった。

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